曲解の時代懐古

とあるモラトリアム大学生の手記

「If」にみる自己の可能性の否定

If I am bird, I can fly in blue sky.

この英文を見て多くの学生(浪人生は学生である)は仮定法を用いるべきだと即座に判断し、訂正したがるだろう。恐らくその判断は正しい。だが、この英語を話したのが4歳児だったらどうだろうか。

仮定法というのは「話者が現実ではそうなり得ないと思っている」場合に使われる。したがって、その子が「本気で」鳥になれると考えているのならばこの文は誤りとは言えず、そのぐらいの年齢の子ならば充分それは有り得る。

逆に言えば我々が一つの可能性を自身の中で失った時、仮定法を用いるのだ。

我々は歳を重ねる事に自分の限界という物を知る。例えば現実の限界を知っているであろう私が「If I am a precure……」など言うことは(恐らく)ない。

この世に人として生を受けた時点で、可否を論ずるまでもない物。確かに、仮定法の範疇にはそれもある。しかしその範疇には、我々の認識として「可能」が「不可能」となった物も数多くあるのではないだろうか。要するに、自分で諦めた物である。

大人となった時、もしかしたら過去欲していた未来がIf I were a doctor…… になっているかもしれないし、If I were a **university student……になっているかもしれない。こうして、我々の可能が自己の可能性の否定に基づく仮定法の所有物になる。

とすると我々、特に学生が if I am……であるためにするべきことは、その欲する所に対する努力なのだろう。我々は仮定法を学ぶために仮定法を学ぶのではない。それが仮定法の範疇となるより先に、自分の可能性とするため我々は仮定法を学ぶのだ。