曲解の時代懐古

とあるモラトリアム大学生の手記

「If」にみる自己の可能性の否定

If I am bird, I can fly in blue sky.

この英文を見て多くの学生(浪人生は学生である)は仮定法を用いるべきだと即座に判断し、訂正したがるだろう。恐らくその判断は正しい。だが、この英語を話したのが4歳児だったらどうだろうか。

仮定法というのは「話者が現実ではそうなり得ないと思っている」場合に使われる。したがって、その子が「本気で」鳥になれると考えているのならばこの文は誤りとは言えず、そのぐらいの年齢の子ならば充分それは有り得る。

逆に言えば我々が一つの可能性を自身の中で失った時、仮定法を用いるのだ。

我々は歳を重ねる事に自分の限界という物を知る。例えば現実の限界を知っているであろう私が「If I am a precure……」など言うことは(恐らく)ない。

この世に人として生を受けた時点で、可否を論ずるまでもない物。確かに、仮定法の範疇にはそれもある。しかしその範疇には、我々の認識として「可能」が「不可能」となった物も数多くあるのではないだろうか。要するに、自分で諦めた物である。

大人となった時、もしかしたら過去欲していた未来がIf I were a doctor…… になっているかもしれないし、If I were a **university student……になっているかもしれない。こうして、我々の可能が自己の可能性の否定に基づく仮定法の所有物になる。

とすると我々、特に学生が if I am……であるためにするべきことは、その欲する所に対する努力なのだろう。我々は仮定法を学ぶために仮定法を学ぶのではない。それが仮定法の範疇となるより先に、自分の可能性とするため我々は仮定法を学ぶのだ。

つまらない祝日、つまらない誕生日

誕生日、クリスマス、お正月、1年には様々な祝の日がある。しかし、その多くが歳を重ねていく事に面白みに欠けるものに感じられるのではないだろうか。少なくとも幼少期の頃の充足感を超えるものはなかなか感じることは出来ない。

何故だろう。

そもそも祝の日にはその事実の意味がある。誕生日には数年前の確かに生まれたという事実、クリスマスにはキリストが(本来は)生まれたという事実、お正月には新年が始まるという事実がある。そしてそれらは、我々の命や存在を価値があるという周りからの認証を前提に、1年を生きながらえることができた感謝とこれからの祈りという意味を持つ。

では、その時何が行われていたか考えてみたい。家庭にもよるが、祝事に対してパーティーが行われ、プレゼントを貰い、自分の好きなものを食べ、ちやほやされたのではないのだろうか。いわば、家族や友人などの他の人が、前述の存在や命の価値という「事実の意味」に見合う一種の「儀式」を行ってくれていたのである。

しかし、歳を重ねる毎に他人は「儀式」を与えてくれなくなる。つまり「事実の意味」に釣り合う「儀式」が失われるのだ。
時にそれは命や存在の価値などの「事実の意味」の認識が得られなくなる不安すら伴う。そこにあるのは意味を満たされた充足感ではなく、あっけなかったなという思いである。

充足には「事実の意味」に釣り合った「儀式」が必要である。
それならば、祝の日における「事実の意味」と他人からの「儀式」を釣り合わせることが充足感を得る方法なのではないか。だが、他人に「儀式」を強要しては無意味だ。酷なことではあるが、「儀式」を自然と行いたくなるような人であるか、日頃の他者との関わり方を見直すべきであるではないのだろうか。そうすればいつか少しは満たされる時がくるかもしれない。