曲解の時代懐古

とあるモラトリアム大学生の手記

つまらない祝日、つまらない誕生日

誕生日、クリスマス、お正月、1年には様々な祝の日がある。しかし、その多くが歳を重ねていく事に面白みに欠けるものに感じられるのではないだろうか。少なくとも幼少期の頃の充足感を超えるものはなかなか感じることは出来ない。

何故だろう。

そもそも祝の日にはその事実の意味がある。誕生日には数年前の確かに生まれたという事実、クリスマスにはキリストが(本来は)生まれたという事実、お正月には新年が始まるという事実がある。そしてそれらは、我々の命や存在を価値があるという周りからの認証を前提に、1年を生きながらえることができた感謝とこれからの祈りという意味を持つ。

では、その時何が行われていたか考えてみたい。家庭にもよるが、祝事に対してパーティーが行われ、プレゼントを貰い、自分の好きなものを食べ、ちやほやされたのではないのだろうか。いわば、家族や友人などの他の人が、前述の存在や命の価値という「事実の意味」に見合う一種の「儀式」を行ってくれていたのである。

しかし、歳を重ねる毎に他人は「儀式」を与えてくれなくなる。つまり「事実の意味」に釣り合う「儀式」が失われるのだ。
時にそれは命や存在の価値などの「事実の意味」の認識が得られなくなる不安すら伴う。そこにあるのは意味を満たされた充足感ではなく、あっけなかったなという思いである。

充足には「事実の意味」に釣り合った「儀式」が必要である。
それならば、祝の日における「事実の意味」と他人からの「儀式」を釣り合わせることが充足感を得る方法なのではないか。だが、他人に「儀式」を強要しては無意味だ。酷なことではあるが、「儀式」を自然と行いたくなるような人であるか、日頃の他者との関わり方を見直すべきであるではないのだろうか。そうすればいつか少しは満たされる時がくるかもしれない。